– wadでの個展を終えて –
- utuwakobako
- 7月3日
- 読了時間: 4分
更新日:7月15日
本当は、もっと早く書いておきたかったのですが、
気持ちの整理に少し時間がかかってしまいました。
個展が終わってからも、日々の余韻が静かに残っています。
今日は少しだけ、そのことを綴らせてください。

今回のwadでの個展は、5年ぶりの開催でした。
数年前、夫は制作の多忙さから心身のバランスを崩し、
「もうしばらく仕事は受けないでほしい」
と、私に言いました。
その頃の私たちは、誰にも会わずに、
静かに暮らせる場所を求めて今の住まいを選びました。
今の暮らしは、小さな別荘地の森のなか。
小鳥のさえずりに耳を澄ませ、木々からの瑞々しさを日々受け取るような生活です。
夫の器づくりも、そうした自然の空気を内包したものを目指してきました。
器をつくることは、夫にとって喜びであると同時に、時に苦しさを伴うものでした。
少しずつ気力を取り戻し、再び土に向かうようになってからも、
制作を喜びと感じられるようになるまでには、時間が必要でした。
そうしてゆっくりと歩きながら、気づけばまたご縁をいただくようになり──
しばらくして、今回の個展のお話になったのです。
場所はwad。
立ち上げ前からのお付き合いである、小林さんからのお声がけでした。
普段の個展や企画展は、
全体のバランスやテーマに沿うことをかなり意識して制作をしています。
小林さんとの長年の信頼関係があったからこそ、
今回、夫は誰の顔色も気にすることなく、バランスもテーマも置いておいて
自由に、思う存分、制作に向かうことができました。
こんな経験は初めてでした。
それはまるで、ずっと静かに燃えていた小さな火が一気に大きくなったような、
抑えていた制作への喜びがとうとう爆発したような、そんな瞬間だったと思います。
そして、小林さんが一つ一つの器の本質を見抜き、空間として形にされたのです。
私たちは初日オープン前の静寂の中、感動に身を委ねていました。

5年離れた意味がそこに感じられました。
そしてその空間には、希望がありました。
今の主流のような、写真映えもしない。
目を見張るような釉薬も、目立つ装飾も施されていない。
一目で土の味わいがわかるような道も選んでいない。
そして、どこかの古い器の「写し」でもない。
夫の器は、どこにも属していません。
本人の内面を表すかのように、控えめな芯が通ったもの。 ただ静かに、自分の信じるかたちを続けてきました。 だから伝わるのに時間がかかる。
それは、一瞬で目を奪う器ではないのかも知れません。
けれど、暮らしの中に置かれたとき── 食べ物が盛られ、キャンドルが灯り、小さな花器が横にあるとき── 器は音もなく、その人の生活と響き合い、そっと輝きはじめる。
手に持った時、器の裏まで見たときに初めてわかるものがある。
派手さではなく、余白の美しさ。 時間はかかるけれど、確かに、伝わる力がある器──
小林さんの手によって作り上げられた空間で、それをそっと感じられたのです。
呼吸をする器たちは、どこか幸せそうに見えて、それに呼応するように、
海外から8年越しで想い続けてくださった方、
制作をやめていた「コシキ」を8年掛けて待っていてくださった方、
たくさんの器をテーブルに抱えて見比べながら1時間も悩む方、
オープン前に並んでお待ちくださった方、
そして、はじめて手に取ってくださった方たちが、
手触りや裏の仕上げまでも丁寧に見て、器の向こうにある気配を感じてくださいました。
あの会場で交わされた言葉やまなざしのひとつひとつが、
静かに、でも確かな力で、夫の背中を押してくれました。
昇華できたものが形になり、手応えとしてまた自分に戻って来てくれたこと──
心の奥では、声にならないほどの喜びがあるのに、
でも、背中からこぼれてくるのは、風にふれるような、ささやかなあたたかさでした。
これからの夫が、そんな気配を土に託していけるように、
私はただ静かに日々を整えていきたいと思っています。



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