器の向こうの憂い──「なんも考えてない」その奥で光るもの
- utuwakobako
- 14 時間前
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この半年、我が家にとってなかなかの試練が続き、私の精神はとうに疲弊していました。
(現在は復活しているので、ご安心ください!) その渦中、あらためて「夫の器っていったい何なのだろう?」と、見つめ直す時期を過ごしました。
夫の器へのこだわりは、
・見た目だけではなく、実用性も兼ね備えていること
・細部まで決して手を抜かない正直さ
ここに全てがあらわれている、と思います。
具体的に言えば、一般的な陶器に比べて強く割れにくいよう工夫していること。
使い始めも水洗い程度で、目止めは不要であること。
電子レンジの温めや、家庭用食洗器が使えること。
洗う時も楽しんでもらえるよう、裏のデザインや仕上げにもこだわっていること。
持ちやすさ・口当たりの良さなど。
陶器の煩わしい部分の多くを排し、現代の生活様式に合わせて手軽に使える器。
でも、見た目も美しい。その両立。
ただ、それって目立たない。
誰にも気付いてもらえないかも知れない。
見た目だけでも、いいじゃないか。
どんどん派手にして目を惹いて、目立って目立って他を圧倒する。
きっと、人気者になれるぜ!!(知らんけど)
なのに、なぜそんな地味な部分に、とことん拘るのか。
どう考えても不思議でならぬ。
そんな疑問を持ちながら、夫を観察してみたり、夫の過去を振り返ってみたり。
そこで一つ、しっくり来る答えを見つけたのです。 夫の器の奥の奥にある「憂い」です。
それは、陰鬱なものではなく。
順風満帆な人生では知ることもなかった困難や
ままならない現実と静かに折り合いをつけ、
それらを糧にしてきた、夫から滲み出る特有のもの。
それがあるから、とことん美しさと実用性にこだわるんじゃないか。
ただ無難に生きて来られていたなら、痛みを知らずに育っていたなら
ここまで追い求めることはできなかったのではないか。
夫の器が持つ「憂い」からは、柔らかさや少しの湿度、
何も語らずとも使い手に寄り添う温かさを感じるのです。
そこに押し付けはなく、ただ器として存在するだけ。
だから、見た目だけではなく、器の気配を感じられる感性をお持ちの方に
夫の器は愛されているのではないか、と。 私も、もちろんその一人です。
夫の器に慰められたり元気づけられたり。
憂いを内包しているからこそ、どんなコンディションの自分であっても
この器を使いたいと思えるのです。
今の百貨店の展示を見ても、周囲はきらきらして華やかなのに対し
夫の器はいつもと変わらず静けさを放っています。
本当にいつも変わらない。
それでも足を止め、笑顔で説明に耳を傾け、興味を持ってご購入くださる方がたくさんおられます。
予備知識もない中で、それがどれだけありがたいことか。
また、夫の器に新しい景色を見せてもらっています。 ・・・と、いいところで終わる予定だったが。
夫にこれを読み聞かせたところ
「文章にすると、そんな感じかなーって思うけど
オレ、なんも考えてないからなぁー」
ですと!!!
嘘やろ・・・?



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